武蔵社会学論集 : ソシオロジスト 「The Sociologist : Journal of the Musashi Sociological Society」 >
2005年度・2006,No.8 >
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http://hdl.handle.net/11149/244
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タイトル: | 岩波映画製作所と60年代ドキュメンタリー映画の出発 : 土本典昭作品にみる初期テレビとの関わりを中心に |
その他のタイトル: | IWANAMI AUDIO-VISUAL MEDIA INC. and the Beginning of Documentary Films of the Sixtes : Focusing on the Relation with the Early Days of Television, Examine the Films of N.Tsuchimoto |
著者: | 戸田, 桂太 TODA, Keita |
発行日: | 2006年3月22日 |
出版者: | 武蔵社会学会 |
抄録: | 岩波映画製作所(以下岩波映画)は1950(昭和25)年に創立され,1998(平成10)年に映画製作をやめるまでの48年間にわたって,新しい手法や技術の開発と斬新な製作体制で記録映画,教育映画,産業PR映画,ドキュメンタリー映画の傑作,話題作を次々に世に出し,戦後映画史に大きな足跡を残した。さらに,そこから巣立った多くの人びとがその後の映画界に絶大な影響力をもたらしたという意味でも特筆すべき映画製作組織であった。 科学映画を中心とした短編記録映画の製作を出発点とした岩波映画の戦後映画史,とりわけドキュメンタリー映画の展開のなかで果たした役割を検証しながら,1950年代末から60年代の半ばにかけて,岩波映画が急激に発展しつつあったテレビに進出し,多くのテレビ番組を制作した時期をとらえて,初期のテレビと記録映画作家との関わりについて考察したい。その初期の段階において,テレビは映画作家たちの力を借り,そのノウハウがテレビ発展の大きな要因となっていた反面,テレビという普遍的なマスメディアが要求するさまざまな規制によって,外部の映画作家の提示するテーマや表現手法が受け入れられないという事態も起きた。それは不特定の視聴者を対象にし,良くも悪くも最大公約数的な内容を要求するテレビ局側と作家たちの求める作家性の発揮との間で普遍性をめぐる確執を生んだ。そしてこの事態は作家たちのテレビとの訣別に繋がっていったが,このこと自体が新しいドキュメンタリー映画を誕生させる契機だったという意味で必然的だったといえる。 本稿は,初期の岩波映画でPR映画,テレビ映画に携わり,その後水俣病に取り組んで数多くの傑作ドキュメンタリーを製作するなかで自主製作・自主上映の独自の映画活動を続けてきた土本典昭の60年代の作品を中心にとりあげ,2004年に開催された土本の「全作品上映」での作品視聴,著作からの引用,また筆者によるインタビューでの発言などによって考察を進めることとする。 |
URI: | http://hdl.handle.net/11149/244 |
出現コレクション: | 2005年度・2006,No.8
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