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  <channel rdf:about="http://hdl.handle.net/11149/157">
    <title>DSpace コレクション: 2009-03-22</title>
    <link>http://hdl.handle.net/11149/157</link>
    <description>2009-03-22</description>
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    <dc:date>2026-04-08T23:07:33Z</dc:date>
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  <item rdf:about="http://hdl.handle.net/11149/265">
    <title>性別カテゴリーを用いた親の語りの分析</title>
    <link>http://hdl.handle.net/11149/265</link>
    <description>タイトル: 性別カテゴリーを用いた親の語りの分析
著者: 中西, 祐子
抄録: 本論は，親子関係についてのインタビュー調査において，親が自分の子どもについて語る際に用いる性別カテゴリーと，それを用いて語るストーリーの論理構成に着目したものである。本論の前半では，親の語りの中では，どのような文脈で子どもの性別が持ち出されるのかに着目し，性別カテゴリーを用いた親の語りのタイプを7つに分類した。続いて，本論の後半では，親が性別カテゴリーを用いて繁に語るストーリーの中から「女の子はおしゃべり男の子は寡黙」と，「親子は同性同士だと理解できる異性だと理解できない」の2つに焦点をあて，それらに対する親の語りの特徴と，別な論理展開（オルタナティヴ・ストーリー）の成立可能性を考察した。 親の目の前にいる現実の子どもたちのあり方は，性別ステレオタイプに沿ったストーリーとは必ずしも一致していない。しかしながら親たちは，そうした現象を目前にした場合でも，何らかの特別な原因があると語るにとどまり，元のステレオタイプ的ストーリーが書きかえられることはないようであった。ステレオタイプ的ストーリーの書き換えには，他者とともに，その新しいストーリーが共有されることが繰り返される必要があると考えられる。</description>
    <dc:date>2009-03-21T15:00:00Z</dc:date>
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  <item rdf:about="http://hdl.handle.net/11149/266">
    <title>「市民」概念の歴史的再検討</title>
    <link>http://hdl.handle.net/11149/266</link>
    <description>タイトル: 「市民」概念の歴史的再検討
著者: 松井, 隆志
抄録: 「市民」の語は今も盛んに用いられるが，実際には概念規定が曖昧だ。「市民」概念が肯定的ニュアンスを醸しながらかくも空洞化しているのはなぜか。本稿は，「市民」の誕生・定着の時代である1960年代の議論からその概念を再構成し，その歴史的文脈と有効性を探ることで，上記の問題を解明する。「市民」概念は1960年代の「市民運動」の議論の中で練り上げられたが，60年安保闘争にしろべ平連運動にしろ，そこでの「市民」像は矛盾をはらみ，実体を適切に記述したものとも言えなかった。そうであるにもかかわらず，「市民」概念が普及しえたのは，「市民」が既成の主体・運動の残余概念だったからだ。つまり「その他」の主体として名指されたのが「市民」であった。このことが，「市民」の指向性や特徴が相矛盾しながらも，「市民」の境界線を実体化させた。だが，1970年代以降の労働運動・学生運動・新左翼運動といった既成の主体・運動の陥没は，必然的に残余概念としての「市民」の境界を曖昧にした。「市民」概念の現在は，こうした歴史性とその構図の変化に起因していると考えられる。</description>
    <dc:date>2009-03-21T15:00:00Z</dc:date>
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  <item rdf:about="http://hdl.handle.net/11149/263">
    <title>イデオロギーとしての父親不在について : 「非社会的問題行動」を事例として</title>
    <link>http://hdl.handle.net/11149/263</link>
    <description>タイトル: イデオロギーとしての父親不在について : 「非社会的問題行動」を事例として
著者: 加藤, 敦也
抄録: 本稿は不登校やひきこもりなど「非社会的問題行動」と呼ばれてきた現象を事例とし，その中で述べられてきた二つの相反する家族像について考察することで，父親不在論に込められた理念と実態の乖離について検討するものである。「1」では，歴史学者のジョン・ギリスが指摘する「生活指針としての家族」（Gillis 1997）という概念を紹介し，社会の実態に関わらず，家族の理想像は家族それ自体のものとして構築されていくという考察を示した。「2」では土居建郎による『甘えの構造』（土居1971）と林 道義による『父性の復権』（林1996）という著作で示された父親不在論について検討し，それらが父親を社会的権威の象徴として捉えているという共通点を持つものの，実態を反映しない幻想であることを指摘した。「3」では川島武宣の思想を紹介しながら，家族に込められた戦後の理想と実態の乖離という観点から，家庭内暴力を具体例とし，その中で父親が父権と民主主義という二つの理念で語られる傾向性を示した。「4」ではイデオロギー論の観点から，父親不在論が社会構造的問題を家族規範に還元していることを示した上で，父親不在の実態は労働と子育ての共存不可能性にあることを明らかにした。結論では父親が産業社会と性別役割分業という構造的な要因の中で，依然として親密な関係から疎外されやすいという実態を示した。</description>
    <dc:date>2009-03-21T15:00:00Z</dc:date>
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  <item rdf:about="http://hdl.handle.net/11149/264">
    <title>境界の言葉 : 永井潜著『医学と哲学』について</title>
    <link>http://hdl.handle.net/11149/264</link>
    <description>タイトル: 境界の言葉 : 永井潜著『医学と哲学』について
著者: 石井, 幸夫
抄録: 本稿の目的は，戦前日本の優生学を牽引した人物としてよく知られている永井潜が語った言説の秩序の解明に向けた導入を行うことにある。 永井の語った言説に関しては近年多くの優生学研究者によって解明が進んでおり，とりわけそこにおいて「何が語られたのか」という問題に関しては多くのことが明らかになっている。しかし，私見では，まだ永井の多くの重要な言説が「何が語られたのか」という問題の水準において未解明のままであり，さらにそれらが「いかに語られたのか」という（まさに言説研究の中心をなす）問題に関してはほぼ完全に未解明と言ってもよい状態が続いている。本稿は，こうした欠落をほんのわずかではあるが埋め，優生学の言説研究への導入を行うべく，永井の数あるテクストの中で，永井が1908（明治41）年に出版した『医学と哲学』というテクストを集中的に考察する。このテクストは永井が著した最初のテクストであり，また永井がその結論を生涯にわたって執拗に反復し続けたテクストでありながら，永井における優生学の展開に対するその意義はおろか，断片的な内容さえほとんど紹介されていない。永井の優生学言説の解明に取り組むには，このテクストを何よりもまず読み解いておかねばならない。 本稿は，まず永井の『医学と哲学』というテクストの内容を紹介し，次いでこのテクストが永井の言説秩序において持った意義を素描的にではあるが明らかにし，最後に永井の言説秩序の本格的解明に向けて考察すべき問題を提示する。</description>
    <dc:date>2009-03-21T15:00:00Z</dc:date>
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